吉野愛氣塾の「四教論」
吉野愛氣塾の「四教論」
吉野愛氣塾の「四教論」とはなにか
一教、二教、三教・・・・・・の、
「教」の本当の意味
合気道の基本技、一教、二教、三教、四教・・・・・・耳慣れた言葉ではあるが、あらためて文字にすると不思議なネーミングではある。
元龍貴氏は、この技名こそ、合気道本来のあり方を示すものであるという。 奈良は吉野の里で合気道研究につとめる氏の「四教論とは何か!
「合気」との出会い
私が一般的にいわれる「合気系武術」なるものに出会ったのは丁度30歳の今から9年ほど前、書店にてある大東流合気柔術のビデオを何の気なしに購入したのが最初である。
初めて見た「合気」の世界はまったく自分にとっては未知の世界で、それまでの空手等の武道経験にはなかった異質の武術に、これは事実なのかいわゆるただのヤラセなのか、まったく判断がつかなかった。
それから様々な情報を集め、どうやら単なるヤラセでもないようだと判断した私は、まず体験をということで結局関西の合気会系の道場に通うことにした。
しかし、道場に通ったからといって、最初から達人技のようなものにお目に掛かれるわけでもなく、まずは基
本のようなものから老若男女に混じっての稽古からはじまった。
以前から私は宗教や思想の世界にも興味があり、特に古神道のものの考え方こそが新しい世界を作るのではないかと漠然と考えていた。つまりこの世界の「終息的現状」を変えるためには何か別の考え方が必要であり、そしてそれは古神道(の考え方)なのではないか、と。
ちょうどその時期に開祖植芝盛平翁の合気道の理念と出会ったのである。
まさに私の探し求めていたものに巡り会った嬉しさから、より一層稽古と研究にのめり込んでいった。
しかし頭ばかりの知識は増えても、実際に身体で判るなどということが出来るものではなく、勤めていた会社も辞め、時間の自由の利くアルバイトをしながらの稽古に明け暮れていたある日、突然に何かが開けた。
合気道に流れる法則性を肌で感じた
それからのことである。 それまで難しいと思っていた開祖のお言葉が次々に判るようになり、力ばかり必要だと感じていた合気道の技の数々も全て一つの法則の上に成り立っているとの実感を抱くにいたったのは。
法則とは、つまり、宇宙は「陰陽」の二気により生じ、陰の中にも陰陽があり、陽の中にもまたさらに陰陽が
ある。この四つのものが基本になって互いに循環し、結び合いながら宇宙のあらゆる事象が生じている、ということである。
これは即ち、開祖のおっしゃられた「気流柔剛」であり「天火水地」ということであり、「知勇親愛」である。この四つの調和をもって、宇宙の心である「愛」の、生成化育の営みは実現されているものである。
そしてこの四つの陰陽の中心に立って調和を取ることが、「あめのうきはし」に立つべき人間の、宇宙の心と一体になった生き方であり、合気道とはその鍛錬の道ではないか。従って、大宇宙の循環、生成化育の大法則(私はこれが合気道でいう「呼吸」だと思うのだが)に則して、合気道は行うべきではないか、と思い至るようになったのである。
この突然の「気づき」に、最初のうちはあれこれと疑いもし、いろいろな実験も試みて、理論を一つひとつ確かめながら慎重に進んで来た。
そうして、どうやらこの方向性に間違いはないと確信に至ったのであるが、それと同時にそれまで住んでいた都会を離れることにした。熱心に通っていた道場からも少し身を遠ざけ、合気道というものを自由なやり方でより深く研究しようと決意したのである。
そして4年半前に奈良県は吉野の地に移り住み、地元の基幹産業である山仕事に従事しながら、合気道研鑚の日々を過ごしてきた。
そしてようやく日々の暮らしも落ち着いた昨年より、合気道の私塾を開いて、地元の方々や友人、稽古仲間等を相手に私独自の合気道の指導を開始し、さらなる理論の整理を行いながら現在にいたっている。
何を重視して指導を行うか
合気道の指導にあたる者として、私はこれまで様々な道場を訪れ、いろんな指導者の方々にもお会いしてきた。また多くの技術指導書も研究してきた。
しかし常に感じてきたのは、修行者の多くに、本当の合気道というものがほとんど伝わっていないのではないかということである。そしてそれは外見上の技術(型)を重視して、その中身をあまりにも疎かに、いや後回しにし過ぎているのからではないかと思うのである。
どの道場でも基本技を中心に稽古を行っているであろう。しかし、その基本技というものでさえ、各道場各指導者によってまちまちである。道場によっては型の伝承を大切に考えているところ、型よりも流れを大切にしているところ、固い稽古を大事にするところもあれば、柔らかい稽古を重要視して行うところもある。時には道場に複数の指導者がいて、それぞれ違ったことを教えているようなところもある。
合気道の型とは何であるか
植芝開祖は「合気道は型を守り型を破り、型を創造しなくてはならない」とおっしゃられたと聞いている。型の稽古というものは外見上の形を真似るだけではなく、その中に流れる理を考えるということと私は理解している。理を学ばない限りかたちをいくら覚えても意味がないのである。
ものごとは何ごとも「最初が肝腎」である。最初の段階で型の意味と合気道の「根本」たるものをしっかりと教えておかないから、多くの修行者が迷ってしまうのではないだろうか。
合気道という「生き方」の実現
私は、合気道はある程度の段階までは、理合さえ学べば簡単だと常々言っているが、世間一般には、合気道の理合は難しいものとされている。
しかし理屈も判らないで稽古するのでは無駄も多く、難しいと思うのも当たり前ではないかまた、やたら気や愛、和合と言った単語を持ち出してきては、さらにわかりにくい、摩訶不思議なものにする傾向もある。
まずは目に見える形、感じられる形、物理的に当たり前な常識の形で学ぶべきである。そういうことを頭でしっかり理解しないで、いくら肉体の習練を行っても効果はなかなかあがらない。
指導者自身も「むずかしい」と言う(あるいは本人も理解できていないことを教えようとしている)ものだから、いつまでたっても、「勘違い」が続く。
まずは簡単なように考え、簡単なレベルから始める、というのが教育というものの正しい順序であり、そうするのが指導者の務めである。
一教、二教の「教」の字の意味
この度、私の合気道研究の一端をここに紹介するが、これは私の全くの私論であることを先にお断りしておく。
合気道の技は数限りなく存在する。いくつかの基本技の名が広く知られてはいるが、自由技になると名もないようなものはいくらでもある。
しかしそうした技も、実は一教から四教の応用に過ぎない。先代の吉祥丸道主も「合気道は一教から四教で十分」と何かに書いておられたし、開祖盛平翁は「三教までは準備運動、合気道はそれから」とおっしゃったと聞いたこともある。
こうしたことを考えあわせると、一教~四教について、一教は「腕抑え」、二教が「小手回し」、三教は「小手捻り」、四教は「手首抑え」と説明するのは、初心者に形を教えるために便宜上行われてきたもの過ぎず、(一教~四教それぞれの技の)形の中から、本来の「教え=理合」を学んでいく、というのが合気道本来のあり方ではないか、と私は思うのである。
つまり、一教から四教というのは単なる技の名称ではなく、読んで字のごとく、「(1~4)の教え」であるとい
うのが私の考え(「四教論」)である。
四教の概論
四教論に至るまでに、私はまず一教と二教は相反する関係、表と裏の関係にあると考えた(これは四教をよりよく理解することにも繋がってゆく)。
この世の中というのいうのは、すべて表と裏というような相反する事物が、実は密接につながり絡み合い、ひとつになって成り立っている。そして現実には、それらは表裏一体となって、あるいは絶え間なく入れ替わりながら、その姿を現すものである。だとするならば合気道の「技」について、同じように考えてみたらどうなるであろう。
このように考えて私は、一教と二教は同時に働いて初めて効力を持つものであり、それが三教という状態であるという考えに至ったのである。
しかし、最初から相反することを同時に認識することは困難である。だから、初めはそれぞれ分けて考え、双方をよく理解した上で初めて同時に使えるようになる。
また、そのようなひとつひとつの理屈を理解していくためには、「型」による稽古という形態をとる必要がある。合気道が型稽古の形態を守るのはそういう理由であると私は考えている。
一教とは自分を中心とした「円の確立」
それでは、これから具体的な説明に入っていきたい。
まず一教について。一教とは自分を中心とした「円の確立」ということ。自分の力の範囲を認識する。そしてその中に相手を入れないという形で学ぶという稽古である。
剣で言えば「正面打ち」。捕りは相手の攻撃を防ぎつつ振り上げ、前に出ながら相手の中に食い込もうとする。受けは自分を守りつつ相手の中に入ろうと受けを取る。捕りはそれを防ぎつつさらに食い込む。
この攻防によって自己の中心からの力、また相手の中心からの力を認識し合う。(象徴的な腕の形といえるのだが)円相を保ちながら掌は相手の方に向けて、相手を「制する」。
私の一教の稽古では、単に押さえ込みだけではなく、入身投げや四方投げ小手返しなど、あらゆる技において一教の理合ということを学ぶので、形そのものよりもその意味ということを感じていただきたい。これは二教以下も同様である。
二教とは「相手との融合を図る」稽古
次に二教。一教で互いに認識し合うことを学んだら、次は「相手との融合を図る」稽古となる。これが二教だ。
一教で相手とのつながりを知って、二教で相手と一体になるのである。
二教とは自己の中心と相手の中心を重ね合わせ、互いの力の円が重なり合っている形である。そこにはすでに力の衝突はなくなっている。
剣で言えば「横面打ち」。自分の横面打ちは単に相手のこめかみあたりを打つのではなく、相手の斜め後方死角に食い込んで密着し、相手の首を掻き斬るところまで入る動きである。
相手と一体になり、自他の区別がなくなるということは、どちらかが死んでいるということとも言える。実戦を考えるのであれば、そういうふうに考えるほうがよい。
腕の形としては一教と同じく円相ではあるが、掌の向きは自分のほうを向いている。ものを「抱える」形である。
一般的に行われる一教、二教は体術による抑え込みで、特に二教は相手の手を鉤型に極めての技として知られている。しかし別にそうして痛みでもって技を行うことなしに、一瞬にして相手を地に這わせることが出来る人はたくさんいる。正しく二教の流れに入ったならば、簡単にできるということなのである。
一教と二教についてもう少しわかりやすい例をあげるとすれば、一教は相手の首筋に後ろから、二教は首筋に前から剣を当てている状態といえる。つまり一教は表、二教は裏、あるいは一教が活、二教が殺という言い方もできよう。
三教とは、「一教と二教を同時に行う」稽古
このような一教と二教の違いをしっかり踏まえた上で、三教を学ぶ。
三教とは、いわば「一教と二教を同時に行う」ものである。一方で相手の侵入を防ぎ、一方で相手が逃げるのを防ぐ。生かしながら殺すということでもある。
また、「遠心力」と「求心力」の関係とも言える。遠心力は一教、つなぎ留めておく力である求心力は二教、このふたつの力が同時に働くから、ものは中心の周りを回り続けることができる。
技においても三教の力がなければ実際は有効でない。前述の通り世の中は本来、表裏活殺一体であるから、(三教とは)相手の中心に深く突き刺すように当てにいく、剣でいえば「突き」に相当するものと私はとらえている。
腕の形は円相であり、掌は片方が相手を向きもう片方が自分の方を向く。相手を「制し」ながら「抱え」ながらが同時である。
一教の稽古は相手がやる気にならなければ成り立たないし、二教の稽古は相手が無理な抵抗すると正しい理は学べない。だからこそ、(合気道特有の)捕りと受けが協力しての型稽古が必要とされているのではないかと考えている。
四教とは「力のほとばしり」
さて、最後の四教についてだが、三教で相手とつながり一体となってはじめて、力というものは相手にストレートに伝わる。その「力のほとばしり」が四教であると考えている。剣における本当の斬り、本当の突きあり、「トドメ」の一撃、相手の息の根を止めるものである。
三教までは、ただ相手に当てているだけ。ただいつでもやれる状態にもっていくだけのもの。本当の力は、四教ではじめて伝わるのである。
ただし、ある程度のレベルの方は一教をするにしても二教をするにしても、三教あるいは四教を使った技を掛けている。それはそれでよいのであるが、それを自覚してやっている人は非常に少ない。だから初心者や下級のものに対しても、わかる形でそれを教えることがない。だから合気道はむずかしいと言われるのである。
まずは、一教から四教の教えをきっちりと認識しなければならない。三教の結びの状態からの技が本物の合気道の技である。
もう一度開祖の「三教までは準備運動、合気道はそれから」という言葉を、深く考える必要があるのではないだろうか。
◎吉野愛氣塾
〒639-3551 奈良県吉野郡川上村寺尾
TEL/FAX 07465-2-0559
aikijuku@hotmail.com
http://homepage1.nifty.com/yoshino-aikijuku
文章出處:http://f13.aaa.livedoor.jp/~aikia/4kyoron-1.htm
原載於:月刊「秘伝」2000年11月号
一教、二教、三教・・・・・・の、
「教」の本当の意味
合気道の基本技、一教、二教、三教、四教・・・・・・耳慣れた言葉ではあるが、あらためて文字にすると不思議なネーミングではある。
元龍貴氏は、この技名こそ、合気道本来のあり方を示すものであるという。 奈良は吉野の里で合気道研究につとめる氏の「四教論とは何か!
「合気」との出会い
私が一般的にいわれる「合気系武術」なるものに出会ったのは丁度30歳の今から9年ほど前、書店にてある大東流合気柔術のビデオを何の気なしに購入したのが最初である。
初めて見た「合気」の世界はまったく自分にとっては未知の世界で、それまでの空手等の武道経験にはなかった異質の武術に、これは事実なのかいわゆるただのヤラセなのか、まったく判断がつかなかった。
それから様々な情報を集め、どうやら単なるヤラセでもないようだと判断した私は、まず体験をということで結局関西の合気会系の道場に通うことにした。
しかし、道場に通ったからといって、最初から達人技のようなものにお目に掛かれるわけでもなく、まずは基
本のようなものから老若男女に混じっての稽古からはじまった。
以前から私は宗教や思想の世界にも興味があり、特に古神道のものの考え方こそが新しい世界を作るのではないかと漠然と考えていた。つまりこの世界の「終息的現状」を変えるためには何か別の考え方が必要であり、そしてそれは古神道(の考え方)なのではないか、と。
ちょうどその時期に開祖植芝盛平翁の合気道の理念と出会ったのである。
まさに私の探し求めていたものに巡り会った嬉しさから、より一層稽古と研究にのめり込んでいった。
しかし頭ばかりの知識は増えても、実際に身体で判るなどということが出来るものではなく、勤めていた会社も辞め、時間の自由の利くアルバイトをしながらの稽古に明け暮れていたある日、突然に何かが開けた。
合気道に流れる法則性を肌で感じた
それからのことである。 それまで難しいと思っていた開祖のお言葉が次々に判るようになり、力ばかり必要だと感じていた合気道の技の数々も全て一つの法則の上に成り立っているとの実感を抱くにいたったのは。
法則とは、つまり、宇宙は「陰陽」の二気により生じ、陰の中にも陰陽があり、陽の中にもまたさらに陰陽が
ある。この四つのものが基本になって互いに循環し、結び合いながら宇宙のあらゆる事象が生じている、ということである。
これは即ち、開祖のおっしゃられた「気流柔剛」であり「天火水地」ということであり、「知勇親愛」である。この四つの調和をもって、宇宙の心である「愛」の、生成化育の営みは実現されているものである。
そしてこの四つの陰陽の中心に立って調和を取ることが、「あめのうきはし」に立つべき人間の、宇宙の心と一体になった生き方であり、合気道とはその鍛錬の道ではないか。従って、大宇宙の循環、生成化育の大法則(私はこれが合気道でいう「呼吸」だと思うのだが)に則して、合気道は行うべきではないか、と思い至るようになったのである。
この突然の「気づき」に、最初のうちはあれこれと疑いもし、いろいろな実験も試みて、理論を一つひとつ確かめながら慎重に進んで来た。
そうして、どうやらこの方向性に間違いはないと確信に至ったのであるが、それと同時にそれまで住んでいた都会を離れることにした。熱心に通っていた道場からも少し身を遠ざけ、合気道というものを自由なやり方でより深く研究しようと決意したのである。
そして4年半前に奈良県は吉野の地に移り住み、地元の基幹産業である山仕事に従事しながら、合気道研鑚の日々を過ごしてきた。
そしてようやく日々の暮らしも落ち着いた昨年より、合気道の私塾を開いて、地元の方々や友人、稽古仲間等を相手に私独自の合気道の指導を開始し、さらなる理論の整理を行いながら現在にいたっている。
何を重視して指導を行うか
合気道の指導にあたる者として、私はこれまで様々な道場を訪れ、いろんな指導者の方々にもお会いしてきた。また多くの技術指導書も研究してきた。
しかし常に感じてきたのは、修行者の多くに、本当の合気道というものがほとんど伝わっていないのではないかということである。そしてそれは外見上の技術(型)を重視して、その中身をあまりにも疎かに、いや後回しにし過ぎているのからではないかと思うのである。
どの道場でも基本技を中心に稽古を行っているであろう。しかし、その基本技というものでさえ、各道場各指導者によってまちまちである。道場によっては型の伝承を大切に考えているところ、型よりも流れを大切にしているところ、固い稽古を大事にするところもあれば、柔らかい稽古を重要視して行うところもある。時には道場に複数の指導者がいて、それぞれ違ったことを教えているようなところもある。
合気道の型とは何であるか
植芝開祖は「合気道は型を守り型を破り、型を創造しなくてはならない」とおっしゃられたと聞いている。型の稽古というものは外見上の形を真似るだけではなく、その中に流れる理を考えるということと私は理解している。理を学ばない限りかたちをいくら覚えても意味がないのである。
ものごとは何ごとも「最初が肝腎」である。最初の段階で型の意味と合気道の「根本」たるものをしっかりと教えておかないから、多くの修行者が迷ってしまうのではないだろうか。
合気道という「生き方」の実現
私は、合気道はある程度の段階までは、理合さえ学べば簡単だと常々言っているが、世間一般には、合気道の理合は難しいものとされている。
しかし理屈も判らないで稽古するのでは無駄も多く、難しいと思うのも当たり前ではないかまた、やたら気や愛、和合と言った単語を持ち出してきては、さらにわかりにくい、摩訶不思議なものにする傾向もある。
まずは目に見える形、感じられる形、物理的に当たり前な常識の形で学ぶべきである。そういうことを頭でしっかり理解しないで、いくら肉体の習練を行っても効果はなかなかあがらない。
指導者自身も「むずかしい」と言う(あるいは本人も理解できていないことを教えようとしている)ものだから、いつまでたっても、「勘違い」が続く。
まずは簡単なように考え、簡単なレベルから始める、というのが教育というものの正しい順序であり、そうするのが指導者の務めである。
一教、二教の「教」の字の意味
この度、私の合気道研究の一端をここに紹介するが、これは私の全くの私論であることを先にお断りしておく。
合気道の技は数限りなく存在する。いくつかの基本技の名が広く知られてはいるが、自由技になると名もないようなものはいくらでもある。
しかしそうした技も、実は一教から四教の応用に過ぎない。先代の吉祥丸道主も「合気道は一教から四教で十分」と何かに書いておられたし、開祖盛平翁は「三教までは準備運動、合気道はそれから」とおっしゃったと聞いたこともある。
こうしたことを考えあわせると、一教~四教について、一教は「腕抑え」、二教が「小手回し」、三教は「小手捻り」、四教は「手首抑え」と説明するのは、初心者に形を教えるために便宜上行われてきたもの過ぎず、(一教~四教それぞれの技の)形の中から、本来の「教え=理合」を学んでいく、というのが合気道本来のあり方ではないか、と私は思うのである。
つまり、一教から四教というのは単なる技の名称ではなく、読んで字のごとく、「(1~4)の教え」であるとい
うのが私の考え(「四教論」)である。
四教の概論
四教論に至るまでに、私はまず一教と二教は相反する関係、表と裏の関係にあると考えた(これは四教をよりよく理解することにも繋がってゆく)。
この世の中というのいうのは、すべて表と裏というような相反する事物が、実は密接につながり絡み合い、ひとつになって成り立っている。そして現実には、それらは表裏一体となって、あるいは絶え間なく入れ替わりながら、その姿を現すものである。だとするならば合気道の「技」について、同じように考えてみたらどうなるであろう。
このように考えて私は、一教と二教は同時に働いて初めて効力を持つものであり、それが三教という状態であるという考えに至ったのである。
しかし、最初から相反することを同時に認識することは困難である。だから、初めはそれぞれ分けて考え、双方をよく理解した上で初めて同時に使えるようになる。
また、そのようなひとつひとつの理屈を理解していくためには、「型」による稽古という形態をとる必要がある。合気道が型稽古の形態を守るのはそういう理由であると私は考えている。
一教とは自分を中心とした「円の確立」
それでは、これから具体的な説明に入っていきたい。
まず一教について。一教とは自分を中心とした「円の確立」ということ。自分の力の範囲を認識する。そしてその中に相手を入れないという形で学ぶという稽古である。
剣で言えば「正面打ち」。捕りは相手の攻撃を防ぎつつ振り上げ、前に出ながら相手の中に食い込もうとする。受けは自分を守りつつ相手の中に入ろうと受けを取る。捕りはそれを防ぎつつさらに食い込む。
この攻防によって自己の中心からの力、また相手の中心からの力を認識し合う。(象徴的な腕の形といえるのだが)円相を保ちながら掌は相手の方に向けて、相手を「制する」。
私の一教の稽古では、単に押さえ込みだけではなく、入身投げや四方投げ小手返しなど、あらゆる技において一教の理合ということを学ぶので、形そのものよりもその意味ということを感じていただきたい。これは二教以下も同様である。
二教とは「相手との融合を図る」稽古
次に二教。一教で互いに認識し合うことを学んだら、次は「相手との融合を図る」稽古となる。これが二教だ。
一教で相手とのつながりを知って、二教で相手と一体になるのである。
二教とは自己の中心と相手の中心を重ね合わせ、互いの力の円が重なり合っている形である。そこにはすでに力の衝突はなくなっている。
剣で言えば「横面打ち」。自分の横面打ちは単に相手のこめかみあたりを打つのではなく、相手の斜め後方死角に食い込んで密着し、相手の首を掻き斬るところまで入る動きである。
相手と一体になり、自他の区別がなくなるということは、どちらかが死んでいるということとも言える。実戦を考えるのであれば、そういうふうに考えるほうがよい。
腕の形としては一教と同じく円相ではあるが、掌の向きは自分のほうを向いている。ものを「抱える」形である。
一般的に行われる一教、二教は体術による抑え込みで、特に二教は相手の手を鉤型に極めての技として知られている。しかし別にそうして痛みでもって技を行うことなしに、一瞬にして相手を地に這わせることが出来る人はたくさんいる。正しく二教の流れに入ったならば、簡単にできるということなのである。
一教と二教についてもう少しわかりやすい例をあげるとすれば、一教は相手の首筋に後ろから、二教は首筋に前から剣を当てている状態といえる。つまり一教は表、二教は裏、あるいは一教が活、二教が殺という言い方もできよう。
三教とは、「一教と二教を同時に行う」稽古
このような一教と二教の違いをしっかり踏まえた上で、三教を学ぶ。
三教とは、いわば「一教と二教を同時に行う」ものである。一方で相手の侵入を防ぎ、一方で相手が逃げるのを防ぐ。生かしながら殺すということでもある。
また、「遠心力」と「求心力」の関係とも言える。遠心力は一教、つなぎ留めておく力である求心力は二教、このふたつの力が同時に働くから、ものは中心の周りを回り続けることができる。
技においても三教の力がなければ実際は有効でない。前述の通り世の中は本来、表裏活殺一体であるから、(三教とは)相手の中心に深く突き刺すように当てにいく、剣でいえば「突き」に相当するものと私はとらえている。
腕の形は円相であり、掌は片方が相手を向きもう片方が自分の方を向く。相手を「制し」ながら「抱え」ながらが同時である。
一教の稽古は相手がやる気にならなければ成り立たないし、二教の稽古は相手が無理な抵抗すると正しい理は学べない。だからこそ、(合気道特有の)捕りと受けが協力しての型稽古が必要とされているのではないかと考えている。
四教とは「力のほとばしり」
さて、最後の四教についてだが、三教で相手とつながり一体となってはじめて、力というものは相手にストレートに伝わる。その「力のほとばしり」が四教であると考えている。剣における本当の斬り、本当の突きあり、「トドメ」の一撃、相手の息の根を止めるものである。
三教までは、ただ相手に当てているだけ。ただいつでもやれる状態にもっていくだけのもの。本当の力は、四教ではじめて伝わるのである。
ただし、ある程度のレベルの方は一教をするにしても二教をするにしても、三教あるいは四教を使った技を掛けている。それはそれでよいのであるが、それを自覚してやっている人は非常に少ない。だから初心者や下級のものに対しても、わかる形でそれを教えることがない。だから合気道はむずかしいと言われるのである。
まずは、一教から四教の教えをきっちりと認識しなければならない。三教の結びの状態からの技が本物の合気道の技である。
もう一度開祖の「三教までは準備運動、合気道はそれから」という言葉を、深く考える必要があるのではないだろうか。
◎吉野愛氣塾
〒639-3551 奈良県吉野郡川上村寺尾
TEL/FAX 07465-2-0559
aikijuku@hotmail.com
http://homepage1.nifty.com/yoshino-aikijuku
文章出處:http://f13.aaa.livedoor.jp/~aikia/4kyoron-1.htm
原載於:月刊「秘伝」2000年11月号
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」(中文版)
何謂吉野合氣教室的「四教論」
一教、二教、三教・・・・・・的、
「教」的本來的意義
合氣道的基本技術、一教、二教、三教、四教
・・・・・・雖然是耳熟能詳的名詞、但是重新把它做為文字來審視的話,的確是不尋常的命名。元龍貴氏說,光就這個名稱,已顯現出合氣道本來的樣子。奈良在吉野故鄉所鑽研合氣道的「四教論」,到底是什麼呢!
和「合氣道」的邂逅
和「合氣道系武術」的接觸始於9年前,我不經意地在書店買了大東流合氣柔術的錄影帶開始。
一開始所看到的「合氣」,對我而言完全是未知的世界;在空手道等武功經驗裡所沒有的異質武術而言,我無法判斷這是真的呢,還是套招?
於是,我就蒐集各式各樣的資訊,判斷它不可能是套招之後,想親身體驗一下,就決定去關西的合氣道道場。
然而,雖說去了道場,一開始都沒看到武功絕頂的人,只是混雜了初學者般的男女老幼,從練習開始。
我向來對宗教和思想就有興趣,特別認為只有古神道的想法能創造出新世界。也就是說,需要不同的想法才能改變這世界的「終息現狀」,而我認為那不就是古神道(的想法)嗎?
剛好那時,我巧遇開山祖植芝盛平的合氣道理念。
我宛若從偶遇心怡事物的喜悅,跳脫至鍛鍊和研究的層次。
但是,只增加腦袋的知識,無法實際反應在身體上的事情,某一天,我突然開竅了。當時的我,辭了工作,一邊做時間上較自由的打工,一邊日夜勤練。
用肌膚感受流暢於合氣道的法則
在那之後的事情。我逐漸領悟了一直覺得很深奧的開山祖的訓示,過去以為一定需要力氣的合氣道的各樣技術,也完全歸納到一個法則就通了。
什麼法則呢?就是宇宙生自「陰陽」,而陰中有陰陽,陽中也有陰陽。這四者為基本,以相互循環、結合來產生宇宙萬象。
這就是始祖所訓示的「氣流柔剛」、「天火水地」、「知勇親愛」。以此四者的調和、宇宙之心的「愛」來進行生成化育,所實現出來的。
職是之故,立於這四個陰陽的中心來取調和,便是人心與宇宙之心合而唯一的生存法門,而合氣道不就是其鍛鍊之道嗎?因此,我於是這麼認為,遵循大宇宙的循環、生成化育的大法則(我認為這就是合氣道所謂的「呼吸」),不就是要練合氣道嗎?
對於這個突然的「領悟」,我一開始也懷疑東懷疑西,試驗了各式各樣的實驗,很慎重地確認一個一個的理論。
在確認這個方向沒錯的同時,我決定離開住慣了的都市。因為我決心要遠離常去的道場,以自由的方式更深入去研究合氣道
4年半前,我搬到奈良縣的吉野,一邊從事當地的基本產業 – 山林工作,一邊每天鑽研著合氣道。
終於,日常生活也安定下來的去年開始,我開設了合氣道道場,開始指導當地民眾、朋友、道友學習我獨創的合氣道,接著進行理論的整理至今。
我注重什麼來指導呢
做為一個合氣道的指導者,我訪問了各式各樣的道場,見了不少指導者。也研究了許多技術指導書。
但是,我感觸最深的是,似乎許多修行者都沒被傳達到真正的合氣道。大家只重視表面的技術(形),而忽略、或是說太慢強調內涵。
我認為不管哪個道場都有它們重點練習的基本技術。只是各家的基本技術,隨各道場的指導者而異。不同道場,有注重”形”的傳承,也有重視”流”的,有注重固定練習的,也有重視柔性練習的。有的道場還不只一位指導者,所以教出各種不同的內容。
合氣道的形所指為何
我聽說植芝始祖說過「合氣道要守住形,要打破形,更要創造形。」我理解所謂形的練習,不只外形要像,其中流動的理也要想。若不學”理”,再怎麼去記形也是無意義的。
任何事情都是「開頭最重要」。我認為,一開始若不扎實地教導形的意義和合氣道的「根本」,很多修行者會不知所從。
合氣道的「生存之道」的實現
雖然我常說,只要學習原理,合氣道要到達某種程度是很簡單的;但是,一般人都認為合氣道的原理很難。
但是,不懂原理就練習的話,當然會徒費時日,覺得很難;加上跑出氣、愛、和合等專有名詞,會讓人更不懂。
首先,我認為應該學看得到的形、感覺得到的形、物理上的常識的形。這些若不在腦中完全理解的話,肉體上再怎麼練習,還是不會有效果的。
若連指導者本身都說難的話(搞不好是本人要教自己也沒理解的東西),誤解就會持續下去。
首先要想的很簡單,從簡單的程度開始,這是一般教育正確的順序,也是指導者的任務。
一教、二教的「教」字的意義
現在,開始介紹我的合氣道研究,不過,我要事先聲明,這完全是我的個人理論。
合氣道的技術數量眾多。有一些基本技術的名稱廣為人知,但是變成自由搏擊而無名的也不少。
但是,這些技術充其量只不過是一教到四教的應用。我聽說先代的吉祥丸道主寫過「合氣道只要一教到四教就夠了。」始祖盛平翁說「到三教為止是準備動作,合氣道在那之後開始」
綜合這些想法,關於一教到四教,我認為一教是「壓手腕」、二教是「小手迴轉」、三教是「小手捻轉」、四教是「手頸壓制」,以此來向初學者教形,只不過是方便行事, 從(一教到四教各種技巧的)形,來學習本來的「教導=理解」,這才是合氣道的本來面目。
也就是說,並不是從一教到四教單純的技巧名稱而已,我認為要如字面的「1~4的教導」才是我所想的「四教論」。
四教的概論
到達四教論之前,我曾認為一教和二教正相反、互為表裡關係(這與更加理解四教有關)。世上事物,雖有正反兩面,而事實上常常合而為一。所以在現實上,成為表裡一體,或是不停地陰陽互換,表現出其型態。這樣的話,對於合氣道的「技術」,不也可以視同一樣嗎?
如此思考,我認為將一教和二教同時運作,會達到三教的狀態。但是,想同時去了解最初是正相反的東西,是很困難的。所以,一開始要分別來想,將兩者深切了解後,再合併使用。
而且,為要一個一個去了解其道理,就必須依據「形」的練習。我認為合氣道要守住形練習的形態,其道理在此。
一教是以自己為中心的「圆的確立」
那就開始進入具體的說明。
首先關於一教。一教是以自己為中心的「圆的確立」。認識自己的力道範圍。而不將對手置入其中,以此形態的學習。
以劍而言,「是正面攻擊」。主動,要一邊防範對手的攻擊,一邊往前深入對手的範圍。被動,要一邊守住自己,一邊進入對方的範圍。主動,乃守中帶攻。
根據這樣的攻防,認識出自本身中心的力量,還有從對方中心出來的力量。(可以說是象徵性的手腕的形)一邊維持圓形,手掌向著對方,以抑制對方。
在我的一教課程,並不只是壓制,由於要學入身摔或四方摔等小手迴轉等等所謂一教的理論,我希望大家更能感覺到形的意義,而不是表象。這在二教以下也是同樣的。
二教是企圖與對方融合
其次是二教。在一教學到了互相認識之後,再來就是「企圖與對方融合」的課程。這就是二教。
在一教,要了解和對手的連結,在二教就要和對手合為一體。
所謂二教,就是將自己的中心跟對手的中心重疊,讓彼此的力的圆重疊的形。那範圍內變的沒有力的衝突。
以劍而言,就是「橫面攻擊」。自己的橫面攻擊不是單只攻擊對手的臉頰命門,要緊密纏住對手斜後方的死角,直到切斬脖子的部位為止,這樣的動作.。
所謂和對手合為一體,無人我之分,也可說是其實某一邊已死。要考慮實戰的話,最好那般地考慮比較好。
手腕的形,雖然和一教一樣是圓形,但是手掌的方向是向自己。向抱東西的形。
一般所練的一教、二教,是基於體術的壓倒在地,特別是,二教以將對方的手盡到勾型的極至而聞名。但是,不這麼忍痛出招,瞬間即能將對手壓制在地的人很多。若是正確地進入二教的流程,可以很簡單地學會。
若要舉例讓一教和二教更容易理解的話,可以說,一教是從對方的頸部背後,二教是從頸部前面對準劍的狀態。也就是說,一教是表面,二教是裡面;或者說,一教是活,二教是殺也可以。
所謂三教是「同時進行一教和二教」的學習
確實地掌握一教和二教的差異之後,來學習三教。
所謂三教,就是「同時進行一教和二教」。一方面防止對手的進攻,一方面不讓對手跑掉。也可說是先活再殺。
而且,也可以說成是「離心力」和「向心力」的關係。離心力是一教、絆住之力的向心力是二教、因為這兩種力量同時作用,東西可以在中心的周圍持續旋轉。
對技巧來說,若沒有三教的力量,實際上就不是有效的。如同前述,這世上原本表裡活殺就是一體的、(所謂三教)我認為就是相當於劍道的「前刺」,亦即深深地刺向對手的中心。
手腕的形是圓形,手掌一邊向著對方,另一邊向自己。同時「制服」和「環抱」對手。
如果對方不想,一教的練習就無法成立,若對手做無理的抵抗,二教的練習則無法學到正確的理論。所以,我認為(合氣道特有的)攻擊和防守協力來做形的練習是有必要的。
所謂四教是「力量的爆發」
關於最後的四教。在三教時,和對手連接成一體,才開始將力量直接傳給對方。那「力量的爆發」就是四教。以劍道而言,就是真正的斬、真正的刺、「致命的一擊」,直擊對手的氣息根本。
到三教為止,只是對著對手而已。是隨時都可做的狀態。真正的力量是到四教才傳給對方。
但是,某種程度的水準的人,儘管是使用一教、二教、都含有三教或是四教的技巧。那樣是不錯的,但是鮮有人自覺地這樣練習。因此,對待初學者或段數低的人,並沒有以知道的形來教這個。所以都說合氣道很難。
首先,一定要扎實地認識一教到四教的內涵。來自三教結合狀態的技巧是真正的合氣道的技巧。
這樣,是不是有必要再次深思始祖所訓示的「到三教為止是準備動作,合氣道在那之後開始」呢?
◎吉野愛氣塾
〒639-3551 奈良県吉野郡川上村寺尾
TEL/FAX 07465-2-0559
aikijuku@hotmail.com
http://homepage1.nifty.com/yoshino-aikijuku
文章出處:http://f13.aaa.livedoor.jp/~aikia/4kyoron-1.htm
原載於:月刊「秘伝」2000年11月号
以上之中文翻譯:沈承禹。(風城合氣道道友)
感謝Ben特別在百忙之中協助翻譯成中文,使我們得以瞭解到更深入的合氣道。
一教、二教、三教・・・・・・的、
「教」的本來的意義
合氣道的基本技術、一教、二教、三教、四教
・・・・・・雖然是耳熟能詳的名詞、但是重新把它做為文字來審視的話,的確是不尋常的命名。元龍貴氏說,光就這個名稱,已顯現出合氣道本來的樣子。奈良在吉野故鄉所鑽研合氣道的「四教論」,到底是什麼呢!
和「合氣道」的邂逅
和「合氣道系武術」的接觸始於9年前,我不經意地在書店買了大東流合氣柔術的錄影帶開始。
一開始所看到的「合氣」,對我而言完全是未知的世界;在空手道等武功經驗裡所沒有的異質武術而言,我無法判斷這是真的呢,還是套招?
於是,我就蒐集各式各樣的資訊,判斷它不可能是套招之後,想親身體驗一下,就決定去關西的合氣道道場。
然而,雖說去了道場,一開始都沒看到武功絕頂的人,只是混雜了初學者般的男女老幼,從練習開始。
我向來對宗教和思想就有興趣,特別認為只有古神道的想法能創造出新世界。也就是說,需要不同的想法才能改變這世界的「終息現狀」,而我認為那不就是古神道(的想法)嗎?
剛好那時,我巧遇開山祖植芝盛平的合氣道理念。
我宛若從偶遇心怡事物的喜悅,跳脫至鍛鍊和研究的層次。
但是,只增加腦袋的知識,無法實際反應在身體上的事情,某一天,我突然開竅了。當時的我,辭了工作,一邊做時間上較自由的打工,一邊日夜勤練。
用肌膚感受流暢於合氣道的法則
在那之後的事情。我逐漸領悟了一直覺得很深奧的開山祖的訓示,過去以為一定需要力氣的合氣道的各樣技術,也完全歸納到一個法則就通了。
什麼法則呢?就是宇宙生自「陰陽」,而陰中有陰陽,陽中也有陰陽。這四者為基本,以相互循環、結合來產生宇宙萬象。
這就是始祖所訓示的「氣流柔剛」、「天火水地」、「知勇親愛」。以此四者的調和、宇宙之心的「愛」來進行生成化育,所實現出來的。
職是之故,立於這四個陰陽的中心來取調和,便是人心與宇宙之心合而唯一的生存法門,而合氣道不就是其鍛鍊之道嗎?因此,我於是這麼認為,遵循大宇宙的循環、生成化育的大法則(我認為這就是合氣道所謂的「呼吸」),不就是要練合氣道嗎?
對於這個突然的「領悟」,我一開始也懷疑東懷疑西,試驗了各式各樣的實驗,很慎重地確認一個一個的理論。
在確認這個方向沒錯的同時,我決定離開住慣了的都市。因為我決心要遠離常去的道場,以自由的方式更深入去研究合氣道
4年半前,我搬到奈良縣的吉野,一邊從事當地的基本產業 – 山林工作,一邊每天鑽研著合氣道。
終於,日常生活也安定下來的去年開始,我開設了合氣道道場,開始指導當地民眾、朋友、道友學習我獨創的合氣道,接著進行理論的整理至今。
我注重什麼來指導呢
做為一個合氣道的指導者,我訪問了各式各樣的道場,見了不少指導者。也研究了許多技術指導書。
但是,我感觸最深的是,似乎許多修行者都沒被傳達到真正的合氣道。大家只重視表面的技術(形),而忽略、或是說太慢強調內涵。
我認為不管哪個道場都有它們重點練習的基本技術。只是各家的基本技術,隨各道場的指導者而異。不同道場,有注重”形”的傳承,也有重視”流”的,有注重固定練習的,也有重視柔性練習的。有的道場還不只一位指導者,所以教出各種不同的內容。
合氣道的形所指為何
我聽說植芝始祖說過「合氣道要守住形,要打破形,更要創造形。」我理解所謂形的練習,不只外形要像,其中流動的理也要想。若不學”理”,再怎麼去記形也是無意義的。
任何事情都是「開頭最重要」。我認為,一開始若不扎實地教導形的意義和合氣道的「根本」,很多修行者會不知所從。
合氣道的「生存之道」的實現
雖然我常說,只要學習原理,合氣道要到達某種程度是很簡單的;但是,一般人都認為合氣道的原理很難。
但是,不懂原理就練習的話,當然會徒費時日,覺得很難;加上跑出氣、愛、和合等專有名詞,會讓人更不懂。
首先,我認為應該學看得到的形、感覺得到的形、物理上的常識的形。這些若不在腦中完全理解的話,肉體上再怎麼練習,還是不會有效果的。
若連指導者本身都說難的話(搞不好是本人要教自己也沒理解的東西),誤解就會持續下去。
首先要想的很簡單,從簡單的程度開始,這是一般教育正確的順序,也是指導者的任務。
一教、二教的「教」字的意義
現在,開始介紹我的合氣道研究,不過,我要事先聲明,這完全是我的個人理論。
合氣道的技術數量眾多。有一些基本技術的名稱廣為人知,但是變成自由搏擊而無名的也不少。
但是,這些技術充其量只不過是一教到四教的應用。我聽說先代的吉祥丸道主寫過「合氣道只要一教到四教就夠了。」始祖盛平翁說「到三教為止是準備動作,合氣道在那之後開始」
綜合這些想法,關於一教到四教,我認為一教是「壓手腕」、二教是「小手迴轉」、三教是「小手捻轉」、四教是「手頸壓制」,以此來向初學者教形,只不過是方便行事, 從(一教到四教各種技巧的)形,來學習本來的「教導=理解」,這才是合氣道的本來面目。
也就是說,並不是從一教到四教單純的技巧名稱而已,我認為要如字面的「1~4的教導」才是我所想的「四教論」。
四教的概論
到達四教論之前,我曾認為一教和二教正相反、互為表裡關係(這與更加理解四教有關)。世上事物,雖有正反兩面,而事實上常常合而為一。所以在現實上,成為表裡一體,或是不停地陰陽互換,表現出其型態。這樣的話,對於合氣道的「技術」,不也可以視同一樣嗎?
如此思考,我認為將一教和二教同時運作,會達到三教的狀態。但是,想同時去了解最初是正相反的東西,是很困難的。所以,一開始要分別來想,將兩者深切了解後,再合併使用。
而且,為要一個一個去了解其道理,就必須依據「形」的練習。我認為合氣道要守住形練習的形態,其道理在此。
一教是以自己為中心的「圆的確立」
那就開始進入具體的說明。
首先關於一教。一教是以自己為中心的「圆的確立」。認識自己的力道範圍。而不將對手置入其中,以此形態的學習。
以劍而言,「是正面攻擊」。主動,要一邊防範對手的攻擊,一邊往前深入對手的範圍。被動,要一邊守住自己,一邊進入對方的範圍。主動,乃守中帶攻。
根據這樣的攻防,認識出自本身中心的力量,還有從對方中心出來的力量。(可以說是象徵性的手腕的形)一邊維持圓形,手掌向著對方,以抑制對方。
在我的一教課程,並不只是壓制,由於要學入身摔或四方摔等小手迴轉等等所謂一教的理論,我希望大家更能感覺到形的意義,而不是表象。這在二教以下也是同樣的。
二教是企圖與對方融合
其次是二教。在一教學到了互相認識之後,再來就是「企圖與對方融合」的課程。這就是二教。
在一教,要了解和對手的連結,在二教就要和對手合為一體。
所謂二教,就是將自己的中心跟對手的中心重疊,讓彼此的力的圆重疊的形。那範圍內變的沒有力的衝突。
以劍而言,就是「橫面攻擊」。自己的橫面攻擊不是單只攻擊對手的臉頰命門,要緊密纏住對手斜後方的死角,直到切斬脖子的部位為止,這樣的動作.。
所謂和對手合為一體,無人我之分,也可說是其實某一邊已死。要考慮實戰的話,最好那般地考慮比較好。
手腕的形,雖然和一教一樣是圓形,但是手掌的方向是向自己。向抱東西的形。
一般所練的一教、二教,是基於體術的壓倒在地,特別是,二教以將對方的手盡到勾型的極至而聞名。但是,不這麼忍痛出招,瞬間即能將對手壓制在地的人很多。若是正確地進入二教的流程,可以很簡單地學會。
若要舉例讓一教和二教更容易理解的話,可以說,一教是從對方的頸部背後,二教是從頸部前面對準劍的狀態。也就是說,一教是表面,二教是裡面;或者說,一教是活,二教是殺也可以。
所謂三教是「同時進行一教和二教」的學習
確實地掌握一教和二教的差異之後,來學習三教。
所謂三教,就是「同時進行一教和二教」。一方面防止對手的進攻,一方面不讓對手跑掉。也可說是先活再殺。
而且,也可以說成是「離心力」和「向心力」的關係。離心力是一教、絆住之力的向心力是二教、因為這兩種力量同時作用,東西可以在中心的周圍持續旋轉。
對技巧來說,若沒有三教的力量,實際上就不是有效的。如同前述,這世上原本表裡活殺就是一體的、(所謂三教)我認為就是相當於劍道的「前刺」,亦即深深地刺向對手的中心。
手腕的形是圓形,手掌一邊向著對方,另一邊向自己。同時「制服」和「環抱」對手。
如果對方不想,一教的練習就無法成立,若對手做無理的抵抗,二教的練習則無法學到正確的理論。所以,我認為(合氣道特有的)攻擊和防守協力來做形的練習是有必要的。
所謂四教是「力量的爆發」
關於最後的四教。在三教時,和對手連接成一體,才開始將力量直接傳給對方。那「力量的爆發」就是四教。以劍道而言,就是真正的斬、真正的刺、「致命的一擊」,直擊對手的氣息根本。
到三教為止,只是對著對手而已。是隨時都可做的狀態。真正的力量是到四教才傳給對方。
但是,某種程度的水準的人,儘管是使用一教、二教、都含有三教或是四教的技巧。那樣是不錯的,但是鮮有人自覺地這樣練習。因此,對待初學者或段數低的人,並沒有以知道的形來教這個。所以都說合氣道很難。
首先,一定要扎實地認識一教到四教的內涵。來自三教結合狀態的技巧是真正的合氣道的技巧。
這樣,是不是有必要再次深思始祖所訓示的「到三教為止是準備動作,合氣道在那之後開始」呢?
◎吉野愛氣塾
〒639-3551 奈良県吉野郡川上村寺尾
TEL/FAX 07465-2-0559
aikijuku@hotmail.com
http://homepage1.nifty.com/yoshino-aikijuku
文章出處:http://f13.aaa.livedoor.jp/~aikia/4kyoron-1.htm
原載於:月刊「秘伝」2000年11月号
以上之中文翻譯:沈承禹。(風城合氣道道友)
感謝Ben特別在百忙之中協助翻譯成中文,使我們得以瞭解到更深入的合氣道。
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」
也許是我程度還不到吧
感覺有些內容看不太懂....=..=...
不過其中有個物理部分不太對
就是在取方的觀點上是沒有離心力的
只有對受方而言才會有離心力
而且要受方持續旋轉只需向心力而已
雖然一般大眾都會以為離心力跟向心力會同時存在(在取方觀點)
但我想一個好的理論要無懈可擊
必需有專業與非專業來看都可以接受的論點
所以我才稍稍賣弄了一下我的領域
希望大家不要見怪
感覺有些內容看不太懂....=..=...
不過其中有個物理部分不太對
就是在取方的觀點上是沒有離心力的
只有對受方而言才會有離心力
而且要受方持續旋轉只需向心力而已
雖然一般大眾都會以為離心力跟向心力會同時存在(在取方觀點)
但我想一個好的理論要無懈可擊
必需有專業與非專業來看都可以接受的論點
所以我才稍稍賣弄了一下我的領域
希望大家不要見怪
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」
其實我也不是很看的懂啦。
不過,繼續努力學習。
我想,我會一天比一天更了解吧。
不過,繼續努力學習。
我想,我會一天比一天更了解吧。
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」
剛好看到有位格友有相關心得,因為不懂如何引用別人blog的文章,所以只好用這樣的方式跟大家分享。
http://tw.myblog.yahoo.com/jw!vDtk9j.TG ... cle?mid=67
作者:林家揚(YUMITO)
上次我看到了日本的吉野愛氣塾有一種「四教論」,想說和大家一起分享、討論一下。 http://f13.aaa.livedoor.jp/~aikia/4kyoron-1.htm
我大致把其中的內容說一下,「四教論」其實就是探討我們一教到四教的技法對合氣道的意義在哪裡。據說植芝盛平說:「到三教為止是準備運動,而合氣道是從三教之後開始的」。而植芝吉祥丸說:「合氣道只要學一教到四教就足夠了」。
為何一教到四教會有這樣一個「教」字呢?其實這就意謂著一教到四教的技法是用來「教導」我們某些東西用的。
文中說一教和二教是屬於表與裏的關係(我們都把「表」譯為前方;「裏」譯為後方)。
一教,讓我們認識了自己的力的範圍,確立了以自己為中心的圓。而且,也教導我們初步地認識了和對方「繫結」的感覺。因為一教是把進入自己範圍內的東西排除,所以為了讓自己不受威脅的一教屬於「活法」。而一教是從對方的脖子後面施展,是為表技。以劍來說的話,就是「正面打」。至於四方摔、入身摔以及反手摔等,皆是一教的應用。(註:施技時手臂呈圓相而手心向前、向外)
二教,是要教導我們去和對方合為一體的技法。當二者融合的時候,我們的圓心就是重疊在一起的。也就是說,自己和對方是共圓,我們都是處在圓周上。而這種和對方共圓的狀態,可以讓力量的衝突消失殆盡。二教最為人知的做法就是將手腕彎曲做關節技,而這種做法是為了不要讓對方逃掉。因此,務求和對方融合且不使對方逃離的二教,屬於「殺法」。又因為二教是從對方脖子前面施展,是為裏技。以劍來說的話,就是「斜打」。(註:施技時手臂呈圓相而手心向內、向著自己)
三教,是同時施展出一教和二教的結果。一方面防止對方的侵入;一方面防止對方逃離。也就是一邊求自己生存一邊打擊對方。當「離心力」(一教)和「向心力」(二教)同時作用的時候,物體就會持續繞著中心旋轉不止。而三教這種「活殺一體」的意念如果以劍來說的話,就是「前打」。(註:施技時手臂呈圓相,一手心向外;一手心向內)
四教,則是從三教之後,再以一股噴射之勁力挫其對手,甚至使之止息。
這麼看來,三教是真正的合氣道之技。而真正的力量(應該是指呼吸力),則是從四教開始傳授。
如此看來,兩位前道主所說的話,似乎也不無道理。
嗯~ 還蠻有趣的東西,不知道各位前輩的看法是不是也認同呢?
尊師重道,要能「善始克終」,除了是對自己還夠不夠謙虛的反省,也是對武術的愛惜與尊敬。
http://tw.myblog.yahoo.com/jw!vDtk9j.TG ... cle?mid=67
作者:林家揚(YUMITO)
上次我看到了日本的吉野愛氣塾有一種「四教論」,想說和大家一起分享、討論一下。 http://f13.aaa.livedoor.jp/~aikia/4kyoron-1.htm
我大致把其中的內容說一下,「四教論」其實就是探討我們一教到四教的技法對合氣道的意義在哪裡。據說植芝盛平說:「到三教為止是準備運動,而合氣道是從三教之後開始的」。而植芝吉祥丸說:「合氣道只要學一教到四教就足夠了」。
為何一教到四教會有這樣一個「教」字呢?其實這就意謂著一教到四教的技法是用來「教導」我們某些東西用的。
文中說一教和二教是屬於表與裏的關係(我們都把「表」譯為前方;「裏」譯為後方)。
一教,讓我們認識了自己的力的範圍,確立了以自己為中心的圓。而且,也教導我們初步地認識了和對方「繫結」的感覺。因為一教是把進入自己範圍內的東西排除,所以為了讓自己不受威脅的一教屬於「活法」。而一教是從對方的脖子後面施展,是為表技。以劍來說的話,就是「正面打」。至於四方摔、入身摔以及反手摔等,皆是一教的應用。(註:施技時手臂呈圓相而手心向前、向外)
二教,是要教導我們去和對方合為一體的技法。當二者融合的時候,我們的圓心就是重疊在一起的。也就是說,自己和對方是共圓,我們都是處在圓周上。而這種和對方共圓的狀態,可以讓力量的衝突消失殆盡。二教最為人知的做法就是將手腕彎曲做關節技,而這種做法是為了不要讓對方逃掉。因此,務求和對方融合且不使對方逃離的二教,屬於「殺法」。又因為二教是從對方脖子前面施展,是為裏技。以劍來說的話,就是「斜打」。(註:施技時手臂呈圓相而手心向內、向著自己)
三教,是同時施展出一教和二教的結果。一方面防止對方的侵入;一方面防止對方逃離。也就是一邊求自己生存一邊打擊對方。當「離心力」(一教)和「向心力」(二教)同時作用的時候,物體就會持續繞著中心旋轉不止。而三教這種「活殺一體」的意念如果以劍來說的話,就是「前打」。(註:施技時手臂呈圓相,一手心向外;一手心向內)
四教,則是從三教之後,再以一股噴射之勁力挫其對手,甚至使之止息。
這麼看來,三教是真正的合氣道之技。而真正的力量(應該是指呼吸力),則是從四教開始傳授。
如此看來,兩位前道主所說的話,似乎也不無道理。
嗯~ 還蠻有趣的東西,不知道各位前輩的看法是不是也認同呢?
尊師重道,要能「善始克終」,除了是對自己還夠不夠謙虛的反省,也是對武術的愛惜與尊敬。
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」
其實離心力在物理上歸為假想力的範疇
它的本質是物體的慣性
所以在取方的角度上
要讓受方旋轉就需要提供向心力
否則受方就會因為慣性而從切線方向跑掉
而取方會感覺受方想要跑掉的力量也就是從此而來
所以如果說離心力與向心力平衡
那受方就只會直線前進不會旋轉了
而從受方角度上
他並不知道自己在旋轉(這樣講有點怪,但這裡所謂的受方角度就是把自己當成不動的原點)
所以為了滿足靜力平衡
必需有一力去平衡向心力
所以才會有離心力的引入
它的本質是物體的慣性
所以在取方的角度上
要讓受方旋轉就需要提供向心力
否則受方就會因為慣性而從切線方向跑掉
而取方會感覺受方想要跑掉的力量也就是從此而來
所以如果說離心力與向心力平衡
那受方就只會直線前進不會旋轉了
而從受方角度上
他並不知道自己在旋轉(這樣講有點怪,但這裡所謂的受方角度就是把自己當成不動的原點)
所以為了滿足靜力平衡
必需有一力去平衡向心力
所以才會有離心力的引入
-
- 一般會員
- 文章: 34
- 註冊時間: 週三 9月 11, 2013 11:25 am
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」
請問內文翻譯有一句話
"若要舉例讓一教和二教更容易理解的話,可以說,一教是從對方的頸部背後,二教是從頸部前面對準劍的狀態。"
這句話看不懂,為何 "一教是從對方的頸部背後" 、"二教是從頸部前面對準劍的狀態" ?
在此句的前面有說 "以劍而言,就是「橫面攻擊」。自己的橫面攻擊不是單只攻擊對手的臉頰命門,要緊密纏住對手斜後方的死角,直到切斬脖子的部位為止"....所以二教是到對手斜後方的死角,前後文有對不上之慮...
所以....
請各位先進協助研究一下~~~是否有錯誤之處
"若要舉例讓一教和二教更容易理解的話,可以說,一教是從對方的頸部背後,二教是從頸部前面對準劍的狀態。"
這句話看不懂,為何 "一教是從對方的頸部背後" 、"二教是從頸部前面對準劍的狀態" ?
在此句的前面有說 "以劍而言,就是「橫面攻擊」。自己的橫面攻擊不是單只攻擊對手的臉頰命門,要緊密纏住對手斜後方的死角,直到切斬脖子的部位為止"....所以二教是到對手斜後方的死角,前後文有對不上之慮...
所以....
請各位先進協助研究一下~~~是否有錯誤之處
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」
關於上述的問題
我的看法如下:
一教的動作
因為都是讓對手保持在自己的範圍外
所以不管是前方或後方
在動作或意念上
都是從對手的後方往前中心來控制與破壞其平衡的
所以<一教是從對方的頸部背後>所指的意思應是如此.
而二教的動作
是讓自己與對手合而為一(也即是對手已是不存在的狀態了)
在動作與觀念上
則反是從受方的正面直接破勢而入
這樣的做法即會如同劍的橫面攻擊一樣
直至斬切結束為止
這其中並沒有衝突.
用文字說明很不容易明白
若有機會
直接在道館上直接練習
就可以很清楚的發現其中的關係了.
我的看法如下:
一教的動作
因為都是讓對手保持在自己的範圍外
所以不管是前方或後方
在動作或意念上
都是從對手的後方往前中心來控制與破壞其平衡的
所以<一教是從對方的頸部背後>所指的意思應是如此.
而二教的動作
是讓自己與對手合而為一(也即是對手已是不存在的狀態了)
在動作與觀念上
則反是從受方的正面直接破勢而入
這樣的做法即會如同劍的橫面攻擊一樣
直至斬切結束為止
這其中並沒有衝突.
用文字說明很不容易明白
若有機會
直接在道館上直接練習
就可以很清楚的發現其中的關係了.
武術
探索生命的力量與深度。
探索生命的力量與深度。
-
- 一般會員
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- 註冊時間: 週三 9月 11, 2013 11:25 am
Re: 吉野愛氣塾の「四教論」
光磊師兄所說: 如果說離心力與向心力平衡那受方就只會直線前進不會旋轉了,
我的問題是:
1. 直線也有離心力與向心力的描述嗎?
2. 若以圓周運動來看,向心力與離心力相等才能維持在同一半徑上吧
人造衛星為何不會跌下來? http://163.20.49.30/teach/air/chinese/flyway/7.htm
ps:
打完上述的問題後細想,才突然想到若想要讓一個綁著線的石頭做圓周運動,
就必須先把石頭往外丟(直線運動),當線拉緊的時候,再施予一個拉回的力量(向心力),
此時才有離心力的描述,如此才能產生圓周運動
不知以上理解是否正確....
我的問題是:
1. 直線也有離心力與向心力的描述嗎?
2. 若以圓周運動來看,向心力與離心力相等才能維持在同一半徑上吧
人造衛星為何不會跌下來? http://163.20.49.30/teach/air/chinese/flyway/7.htm
ps:
打完上述的問題後細想,才突然想到若想要讓一個綁著線的石頭做圓周運動,
就必須先把石頭往外丟(直線運動),當線拉緊的時候,再施予一個拉回的力量(向心力),
此時才有離心力的描述,如此才能產生圓周運動
不知以上理解是否正確....